定年退職をどう考えるか。歳を重ねるということ

定年退職を軸に思うことがあったので書いてみます。


沼津駅は初上陸。


年齢で区切られる恐怖感


「定年になり再雇用されたけど給料が大幅に下がった。。。」

「定年を迎えて責任を持てないポジションになったという理由で、給与は時間給になった。」

などというような話しを聞くと、

「年齢だけでじぶんの能力に線引きされる世界は大変そう。。。」と感じることがあります。

定年退職の話題として思い出す新社会人として勤めた銀行の定年は、その当時は55歳。

そのころは55歳という年齢を遥か遠くに感じたので、定年退職ということに対して何も感じなかったといえます。

(また「銀行員は銀行で定年退職を迎えることは意外と少なく、片道切符で出向させられることも多い。。。」ということを目にしていたなぁと。)

とはいっても、ひとを年齢で一律に判断して「定年退職」とするのは、不思議な感覚ですよね。

たしかに「同じ力量を持ったひとが2人いた場合には若い人を採用する。」

というのは必要なことだと感じますし、その方が世の中の多様性が生まれるものでしょう。

それでも「一定の年齢の誕生日を迎えたら定年になる。」という世界には、ちょっとした恐怖を感じるといえます。



飽きることに対する恐怖感


独立すると「年齢による定年退職はない。」といえるものです。

とはいっても、年齢によって「仕事を依頼するかどうかの判断をされる。」ということはあるかもしれません。

それでも「誕生日が来たから誰かに強制的にやめさせられる。。。」ということはないでしょう。

ただ「仕事に飽きてしまうのが怖いなぁ。」という恐怖感を持つことはあります。

  • 税務顧問業務に飽きる
  • 確定申告業務に飽きる
  • スポット相談業務に飽きる
  • 銀行融資業務に飽きる
  • 話すことに飽きる
  • 書くことに飽きる

などというように「年齢ではなく、じぶんのなかにある熱量がなくなる。。。」という時期は、

「いつか来てしまうのかもしれない。。。」ということを考えるよなぁと。

たしかに、飽きてしまったとしても「対処の仕方はいくつもある。」といえるかもしれません。

「税理士業務に飽きたなら、現場の仕事をやめて管理に回ればいいじゃん。」といえば、そのような解決策もあるものでしょう。

このような「飽きる」との戦いは、年齢を重ねることよりも恐怖感があるといえます。


飽きないため、若さを残すため、いまをデジタル化していく


このように「飽きる」ということや、「歳を取る」ということに対する恐怖感を持つということもあるといえます。

とはいっても、そのようなことを考え続けるよりは「いまを残しておく」ということを意識したほうがいいのかなぁと。

その「いま」というものも「デジタル化」させて残すということを意識しているといえます。

たとえば「人生のなかで若いときはいつなのか。」といえば「いま」だともいえるでしょう。

なので、歳を取ることを悔しがるのであれば「YouTubeなどの動画としていまを残しておく。」ということもありだといえます。

YouTubeが存在し続ける限りは「若く動いているじぶんが永遠に存在し続ける。」といえるものです。

このブログに関しても「いまのじぶんの考え」を伝えているものなので、じぶんのいまが存在し続けると感じています。

そして、いまのじぶんが取り組んでいることやじぶんの考えなどは、

「いま」伝えておかないと、じぶんの実力を見誤るというようなことも起こり得るものです。

年齢を重ねたじぶんを美化させないように「いまをデジタル化させていく。」ということもありなのかなぁと。

いまをデジタル化させていけば、じぶんの成長にも気が付きやすくなるといえますし、

新しいことにもチャレンジしやすくなるので「飽きる」ということも、少なくなるといえるかもしれません。


まとめ


「いま」を残しておけば、やりきった感が強くなるので恐怖というものが少なくなるかなぁと。


【おわりに】

先日、夢の中で「人間っていつかは死ぬんだよなぁ。。。」と虚無感に襲われて目が覚めました。。。

じぶんの人生は「やりきっている」ということをわりと感じているのですが、娘のためにもまだ生きなければと。


【一日一新】

オリーブの丘

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