「発信するのは恥ずかしい。」といった感情を持つのは悪いことではないかなぁと。
発信の恥ずかしい
「発信してて恥ずかしくないんですか。。。」といった質問をときおり受けたりするといえるかもしれません。
「よくそんな恥ずかしい発信ができるね。」
などと正拳ぱんちをくらいにきているのかと思うようなことも言われたことがあるといえるかもしれません。。。
「恥ずかしいかどうか。」といえば、恥ずかしさはあるものです。
このような内容でブログを書いているのも、
「メイン事業が税理士なんだから税金のこと以外を書いている恥ずかしさ。」といったものもあるといえます。
それこそ、YouTubeなんかは、
「じぶんの顔が恥ずかしい。。。」といったことを頻繁に感じているものです。
「光の当たり具合やカメラアングルによって、随分顔が違うものなんだね。」とじぶんの顔に対して驚いていたりもするといえます。
だからか「内容の薄さやじぶんの顔が紛れるように画力で補おう。」などと考えながらやっているといえるものです。
発信をしないのが怖い
「ブログも恥ずかしい。。。」
「YouTubeも恥ずかしい。。。」
「朝の挨拶をしているTwitterも恥ずかしい。。。」といったことを思っているといえます。
「ホントは全然、恥ずかしいなんて思っていないでしょ。」と感じるかもしれませんが思っているものです。
とはいっても、発信をしない方のが怖いのです。
発信というのは、わたしにとっての「ここにいるよ。」といった意味とともに営業の一環だともいえます。
そして、営業としての発信をしないことには恐怖を持っているのです。
たとえば「今日はリアルの場で名刺を10枚配った。」といっても、知ってもらえたひとは10人。
ましてや、1日で10人に名刺を配るというのは飛び込み営業をするか交流会にでもでなければ難しいといえます。
そして「毎日10人に名刺を配れるか。」といえば、
「毎日飛び込み営業をする!」と決めてもいない限りは厳しいもの。
さらには、いい感じに仕事がある日だとすれば「飛び込み営業で10人に名刺を配る。」ともならないものです。
体力を使うし、嫌われることもあるしと。
また、リアルの営業だけだと知ってもらえたのは10人の閉鎖的な空間だけで、リアルの営業をしない日に発信をしていなければ知ってもらえたのは0人という1日。
ここに恐怖を感じるのです。
「日々の仕事をこなしているだけでいいのか。」といったような。
だったら「閉鎖的な空間で10人にも名刺を配り、オープンな場でさらに知ってもらう機会をつくる。」といったようなインターネット空間を活用した発信も合わせて行いたいといえるのです。
恥ずかしさはずっと持っていく
「リアルの場での営業。」にも恥ずかしさはあるかもしれません。
「元銀行員の税理士です。」などということにも恥ずかしさはあるといえます。
ひたすら毎日飛び込み営業をおこなっていた銀行員時代にも、恥ずかしさはあったものでした。
たしかに、場数を踏んでいくと恥ずかしさはのレベルは下がっていくといえます。
「かっこよく見せよう。」といったブランディングなどは、どこかに言ってしまいました。。。
それこそ「しょうちゃんって、ちょっと変わってるよね。」と、
学生時代から言われ続けていたことを思い出してみると「飾る必要もないんだなぁ。」といった考えのほうが強くなってきたといえます。
なので「発信するうえでの恥ずかしさは悪。」だとは感じないものです。
だって、恥ずかしさは残り続けるものだから。
そして、恥ずかしさを持っているひとのほうにわたしは魅了されたりするものです。
それは「そんなの簡単でしょ。。。」といった武勇伝を聞くよりも、
「じぶんもいまだに恥ずかしさはあるよ。」といえるひとのほうに人間的な魅力を感じるからだともいえます。
だからこそ「恥ずかしい。」といった気持ちは持ち続けていいんじゃないかなぁと。
「税金のこんな簡単なことを聞くなんて恥ずかしい。」と思っているひとから相談されるのもうれしいものです。
「それを知らないことは全然恥ずかしいことじゃないですよ。」とも感じるものですから。
まとめ
この内容で全世界に発信をしていることにも恥ずかしさはあるといえます。
【おわりに】
Netflixで「タイムカット。」という映画を観たりと。
内容もわりとおもしろかったのですが、世代的なBGMが頻繁的に流れていて嬉しかったです。
エンディングで流れていたこの曲で「あぁ、いい映画だった。」と感じちゃったという。。。
(映画の内容がこの曲の歌詞の内容にかかっている)
【一日一新】
映画 ある男
映画 タイムカット