「才能がない。」
というような「才能」という言葉は、それほど気にしなくてもいいのではないでしょうか。
才能という呪縛
「あの人には才能がある。」
「がんばったのに才能がないかもしれない。」
というように、「うまくいっている場合でも、うまくいっていない場合。」
にも「才能」という言葉を気にしてしまうことがありますよね。
たしかにスポーツなどでは、
「身体能力という持って生まれた才能。」
で、大きく差がつく部分もあるのかもしれません。
たとえば、いまの日本人が、
「ウサイン・ボルト並みのスピードで100mを走れるのか。」というと、それは難しいでしょう。
なので「才能」という言葉を気にせざるを得ない場面も、やはりありますよね。
とはいっても、その「才能」という言葉を気にしすぎても仕方がないかなぁと考えています。
才能は環境で変わる
「じぶんには才能がないかも。」
と考えることはあるかもしれませんが、
「その才能というものは、環境や組織で変わるようなもの。」だとおもいます。
たとえば、
「ひたすら缶詰を缶切りで開けていく。」
というような作業を黙々と行なっていく仕事は、わたしの場合には才能がないようです(というか左利きなので、缶切りが使えないということをそのときに知りました)。
そのような向いていない仕事をしなければならない環境にいると、
「あぁ、じぶんなんて生きていても。。。」
などということを考えることもありますよね。
とはいっても、じぶんの「才能」というものはひとつの尺度だけでは測れないものです。
「ひたすら缶詰を缶切りで開ける。」という仕事では「遅っ。」と、嫌味を言われたりもしました。
それでも、「いままでの税理士さんよりも遥かにわかりやすい。」
というように、じぶんを認めて貰える環境を見つけることはできています。
なので、いまの仕事が合わないといったことや学校が合わないから「ダメな奴。」ではないのです。
そのようなことがあるならば、それは環境や組織が合わずに「才能」を発揮できていない、ということなのでしょう。
「才能なんて、結局は環境や場所で変わるもの。」
といったくらいの気持ちで行きましょうよと。
「才能」を気にせずやりたいことをやってみる
「才能」という言葉を気にしすぎると、身動きが取れなくなってしまいます。
「いまがダメだから才能もなくて、きっと永遠にダメ。」
というようなことは、ありえないことです。
わたしが税理士試験の勉強を始めたときは、
「これは思っていたよりも難しくてやばいかも。。。」
と心配になりましたが、「才能が。。。」ということをあまり考えないようにしていました。
「税理士を軸にしてじぶんで商売をしたいんだから、ひとまず毎日勉強を続けてみよう。」
と考えていたら、何とか結果がついてきたというくらいな感覚です。
また、20年以上弾いているギターもなかなかうまくなりません。。。
それでも「才能が。。。」ということを考えずにひとまずで続けています。
「才能」などということは考えずに、
「やりたいことをやってみる。」というスタンスのほうが、気持ちはスッキリするよなぁと。
まとめ
「才能があったのに伸び悩んだ。」
と「才能」という言葉は、ネガティブな意味で使われることが多いように感じています。
なので、「才能」というようなことは、あまり気にしなくていいのではないかなぁと。
才能がないと感じていても、環境が変わるとうまくいくこともありますよ。
【おわりに】
今日は久々につまらない話(研修)を対面で何時間も聞いていました。。。
「研修は動画で聞く。」
という環境に慣れてしまったので、対面でのつまらない研修にはもう参加したくないなぁと。
【一日一新】
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