「話す機会がないから寂しい。。。」という感情はないかなぁと。
話す機会は減っている
「たしかに、ひとと話す機会は減ってるよなぁ。」とひとり仕事をしていると感じたりもするものです。
いい感じで集中して仕事をしているのに、不意に話しかけられることもないですし、電話番をやっていちいち電話になることもないですし。
だからか、ひとと話す機会は確実に減っているといえます。
ただ、ひとと話す機会が減っているため愚痴を言う機会もテレビネタを耳にする機会がないのです。
「あいつ仕事してないじゃん。。。」
「あの芸能人がさぁ。。。」などといったような会話は、勤めているときには日常的に繰り返されていたといえるかもしれません。
それこそ、ランチのときや仕事後の飲み会でも「前向きな会話で盛り上がる。」といったことも、あまり記憶にないなぁと。
マイナスの会話をしなくなった
だからなのか「話す機会が減っている。」というよりは、
「愚痴などのマイナスの会話をする機会が減っている。」といえるのです。
ひとり仕事をしていると愚痴を言うくらいだったら、その取引を見直すといった方向に前向きになれたりもするといえます。
「社内政治的に離れられない取引先だから。。。」などと躊躇することもなく、決裁権はじぶんにあるので違和感があるなら行動に移せちゃうから。
「いやいや、そうじゃなくて、前向きな会話や他愛もない会話をする機会も減っているでしょ。」などと思ったりもするものかもしれません。
たしかに、どこに行っても、
「アーセナルっていうサッカーチームが好きでさぁ。」などと無理やりサッカーの話題に持っていたりもしたので、他愛もないサッカーの会話を勤めていたときには良くしていたものでした。
なので「ブカヨ・サカ選手を酷使し過ぎだよね。。。」
「明らかに昨シーズンの終盤あたりからパフォーマンスが落ちてるじゃん。」といった会話ができないことに寂しさを感じていなくはないといえます。
とはいっても「話す機会がなくて寂しい。」というのとは、ちょっと感覚が違うかなぁと。
負の感情を持つ場面が減ったから
「アーセナルの話を。。。」といっても、実際にはマニアックすぎるのでそんな会話ができるひとはそれほどいなかったものでした。
そして、無理やりそのような会話を聞くのは相手に取って不快だといえるでしょう。
そんな「不快に思われない場所で会話をする。」というのが、発信だったりするのです。
わたしがブログやYouTubeを続けられているのも、
話す機会が少なくなっているからそのエネルギーを発信することに向けられているといえます。
なぜなら、ブログやYouTubeというのは「じぶんの精神が安定しているから続けられている。」と感じるからです。
それこそ、ひとを雇い話す機会が増えると寂しさは少なくなるかもしれませんが、
社内政治に負の感情を持ったりして「発信ができる精神状態にならない。」といえるかもしれません。
なので「やりたいことや最低限のやらなければならない約束を守りながら、社内政治に一切労力を使わない。」という状態は心地いいのです。
すると「他愛もない会話をする機会は減ったけど、それとともに負の感情を持つ場面も減った。」といえるので、話す機会が減っていることに寂しさを感じないかなぁと。
まとめ
じぶんに集中できる環境は癖になるかもです。
【おわりに】
今日は娘の学校の3者面談でした。
「怖い先生だよ。。。」などと聞いていたのですが、わかりやすく高校受験について教えてもらってためになったなぁと。
【一日一新】
ある打ち合わせ