「感動をありがとう。」
という言葉には違和感があります。
感動をありがとうには危険な印象が
スポーツを観ること自体は好きなのですが、普段は海外サッカーしか観ません。
その海外サッカー観戦は「人生の一部だという感覚。」で、シーズンである8月から5月までは毎週観ているほど。
「サッカーの何が面白いの?」と聞かれれば、
「ある程度大きなピッチで、ボールと選手が止まることなく流れていく姿に美しさを感じる。」
というところかもしれません。
ただ、サッカーが好きだからといっても「日本人だから。」と、それほど日本人選手を追うことはないです。
サッカー男子日本代表の試合も、ワールドカップの試合を観るかどうかくらいなほど。
そんな、この記事を書いている時期(2021.8)は東京でオリンピックが開催されています。
なので、スポーツが好きだということもありオリンピック中継は観ていました。
とはいっても、そのオリンピック中継で感じる「感動をありがとう。」という言葉には違和感を感じてしまいます。。。
たしかに、いままで観たこともないようなスポーツを観ていると「凄えなぁ。」と感動をするということも。
しかし、好きなサッカーでは全く感動ができませんでした。
オリンピックのサッカーは年齢制限を設けているというような様々な事情もあり、
「世界トップレベルのサッカーからは、5段階くらいレベルが落ちている。」という感覚を持ってしまいます。
なかでも、日本男子代表の試合を準決勝と3位決定戦を観てみましたが、
「これがトップレベルのサッカーの試合といえるのかなぁ。」
と冷めた気持ちになってしまいました。
日本人とすると「日本男子代表が4位になった。」ということは、
「感動をありがとう。」
といえるのかもしれませんが、試合のレベルもそれほど高くなく、
日本のレベルもそれほど上がっている感覚もありませんでした。。。
それを「感動をありがとう。メダルまであと一歩だった。次に期待。」
という言葉で片付けてしまうと、
「本当に進まなければならない道筋を見失ってしまうような危険な印象。」になってしまいます。
同調圧力は息苦しい
わたしは日本人なので、日本人選手が活躍をするのを観ると「すごいなぁ。」とは思います。
とはいっても、「日本人だから、日本人の快挙に感動しなければならない。」
というような同調圧力には、息苦しさを感じてしまいます。。。
圧倒的な差で1位になっている選手の名前すらわからずに、
入賞した日本人選手に「感動をありがとう。」というシーンを観てしまうと、
「いやいやっ、たしかに入賞も凄いけどあの1位の選手はぶっちぎりじゃん。。。」などということを感じるもの。
このようなことをいうと、「あの人は、おまえなんかよりも頑張っている。」といったことや、
「お国のために命を懸けた人を否定してはいけない。」といった意見になるかもしれません。
とはいっても、「せっかくやってるんだから、余計なことを言うなよ。」
というような同調圧力には、やはり違和感があります。
「みんなで横断歩道を渡ろうよ。」
ではなく、必要性があるならじぶんひとりでも渡ろうよと。
感動はそれほど大げさなものでなくてもできる
「感動をありがとう。」
となってしまうと、何かビッグなイベントでなければならないようなものもありますが、
「感動をするのにそれほど大げさなものも必要はないかなぁ。」と思っています。
「わたしがつくった夕飯よりも、妻がつくった夕飯のほうがやっぱり美味しい。。。」
「65Wの急速充電器がありえないほど小さくなった。」
「意外な人にブログが読まれていた。」
などと大げさなものではなくても、感動は至るところにあるものですよね。
「感動してよ。」
とゴリ押しされるよりも、「こんなところにひまわりが咲くんだねぇ。」
ということを見つけたときのほうが、気持ちよく感動できたりするものです。
まとめ
「感動をありがとう。」
には「他には何も言わせないぞ。」といった同調圧力を感じてしまいます。
感動なんて日常の至るところにあるものです。
それをビッグイベントにして、感動をゴリ押しするなら、
「なぜ成功し、どこが失敗だったのか。」を突き詰めたほうが次につながるよなぁと。
【おわりに】
ありとあらゆるお土産物のなかで、生八ツ橋が一番好きです。
できれば週イチくらいで食べたいのですが、いまいち出会うことが少なかったりします。
大手を振って生八ツ橋を食べに行けるようになれば、もっと感動するよなぁと。。。
【一日一新】
箱根神社