「ひとから意見を言われて反論する。」
「SNSで反射的に反論する。」としないために意識したほうがいいこともあったりするものです。
インプットを意識する
「反論するのに疲れた。。。」といったことを感じたりするひともいるものでしょう。
「じぶんが世界一有能な頭脳を持っているから全世界に正しい意見を伝えるんだ。。。」などとも考えたりもするかもしれません。
とはいっても「反論。」などというように肩ひじを張って意見を言う必要はないんじゃないかなぁと。
「世界最高の考えをじぶんが。。。」などと考えているのは、張り切り過ぎだといえます。
もし、そのような考えを持ってしまうなら「インプット不足かもしれない。」と考えてみると気が楽になったりするものです。
最近読んだ「君のクイズ。」というタイトルの小説も、
「安易に反論するのではなく、まずは客観的な情報を集めよう。」といった主人公の姿勢が学びになったものでした。
なので「いやいやいや。。。」といった声が出てきそうになったら、
「世の中には正解なんてなく見え方による角度の違いなだけかもしれない。」と踏み留まってインプットに力を入れたほうがいいといえます。
SNSはファンタジーだと考える
SNSを眺めていると「SNS疲れ。」といったような言葉も思い浮かんだりするものです。
「議論の応酬が激しいなぁ。」といったように。
そして「その議論に加わりたい。。。」と感じたくなる気持ちもわからないではありません。
「じぶんがファシリテーターになれば、この議論の方向をより良いものにできる。」とも感じたりするでしょう。
とはいっても「じぶんが上できみが下。」などと考えて反論をする必要などはないのです。
それこそ、Twitterのような文字数制限があるSNSでは、直木賞作家ばりの文才があっても意見を伝えるのは無理だといえるかもしれません。
なので「SNSはファンタジー。」といったくらいで眺めればいいといえます。
ファンタジーなのでわざわざ反論する必要もないですし、わりきって眺めたほうが楽しめるものです。
それでも「ファンタジーの世界でパーティーに加わりたい。」と感じたならば、職業は遊び人を選択するくらいがちょうどいいといえるかもしれません。
適度に負ける機会に身をおく
年齢が上がれば上がるほど、怒られる機会もなくなれば「負けた。。。」と感じる機会がなくなったりもするものでしょう。
すると「じぶんは完璧な人間なんだ。」と考えがちになったりもするのです。
「こんなレベル。。。」ともいえるブログを書いているわたしでも、
「そこそこいい文章が書けている。」などと驕り高ぶることがあったりするといえるかもしれません。
なので「上には上がいる。」と感じるために、じぶんよりも先に行っているひとの作品に触れる機会を意識的に持ったほうがいいものです。
それこそ、お金を払って学びに行けば「気持ちよく負けられる。」ともいえるものでしょう。
また、ジャンルの異なる分野にいる同世代に気持ちよく負けることも必要な機会だといえるものです。
などというように、適度に負ける機会をつくっておけば反射的に反論したくなる場面は訪れなくなるといえます。
負けることによって、
「じぶんの牙を磨き続けよ。。。」などとじぶんの力量を上げる修行に取り組みやすくなるといえるものです。
まとめ
反論する前にできることがあったりするものです。
【おわりに】
AmazonのEcho端末に「どぅわん。」とそこそこの大きな音で通知が来てびっくりしていた数年間だったのです。
その通知が来ないようにできるみたいでした。これで落ち着いて生活できるわぁと。
【一日一新】
昼にChocoZAP