「学生時代の先生に恩師がいる。」
などということは、わたしにはありませんでした。
むしろ「恩師なんてできないだろ。」と思っています。
恩師がいたことはない
「授業中にもっと手を挙げてくれたら、成績を4から5に上げてあげるのに。。。」
というようなことを、中学生時代の教師に言われたことがあります。
たしかに、そのときのわたしは、
「何があっても手は挙げない。」ということ決めてすべての授業を受けていました。
だからなのか「もっと積極的に授業を受けて欲しい。」
との気持ちで、その先生もこのような言葉を投げかけたのでしょう。
とはいってもそのときには、
「教師が生徒に媚を売ることを強要してくるのかよ。」と、かなりの嫌悪感を受けたものでした。
なので「学生時代の先生に感謝している。あの先生がいたからこそ、いまのじぶんがある。」
などという人がいると「何いってんだよ。」と思ってしまうことがあります。
先程の話も「学生に媚びを売らせようとするなんて、間違っているんじゃ。。。」
ということを感じたので、それ以後は「その授業では絶対に手を挙げない」という生徒になってしまいました(成績は4のまま)。
このようなこともあり、学生時代に接した先生の多くは好きではなかったです。
むしろ、成績欲しさに(そのように見える)、
「先生に媚を売るという同級生に対しては違和感を感じていました。」し、
それを良しとする風潮なども「なんだかなぁ。」と思っていました。
世の中は媚を売るように出来ている
学生時代も会社員時代にも感じていたことのひとつが、
「世の中は媚を売ることで、居心地が良くなるように出来ているのかも。」ということです。
たとえば、「参考書を読むとそれほど時間もかからずに理解できる」ことを、
「わかりにくい授業をしているのにつまらないと言ってはいけない。」といったことがありますよね。
また、何度も聞かされる昔の武勇伝に、
「それこの前も言ってましたよ。」と話の腰を折ってはいけないというようなこともあるでしょう。
このようなことは、空気の読める人間として「媚を売る」ように求められているともいえます。
そして世の中というは「ちょっとできる奴」よりは、
「あまりできが良い方ではないけど素直に話を聞いてくる人。」のほうが、気に入られる可能性は高くなるものです。
なので、媚を売らずにじぶんの道を生きていくというは、難しいことだといえるかもしれません。
媚を売らなくていい道もある
媚を売らないで生きていくという道では「ちょっとできる奴」くらいでは、簡単に追いやられてしまう難しい道だと感じています。
なので、「有無も言わさず圧倒的にできる実力。」か、
「媚を売らなくてもいい別の道を見つける。」という必要があるといえます。
そして、そのような道に行くにはやはり勉強をする必要があるでしょう。
とはいっても、学生時代のように「9科目を満遍なくできる」という必要はありません。
また、国語や数学というように、ある科目に詳しいという必要もないでしょう。
「社会という科目の中の歴史の幕末だけに詳しい。」といったことや、
「音楽のヘヴィメタルの歴史だけに詳しい。」というように、
勉強をして詳しくなる分野は、学生時代に学んだ分野よりもさらに小さな世界で問題ないといえます。
「何でも卒なくできる奴。」
は学生時代にはヒーローになれるかもしれませんが、そんな普通の人は世の中には多くいるものです。
むしろ、サッカー選手のリオネル・メッシのように、
「守備をするときには歴史上観たこともないくらいチンタラ歩いているけど、攻撃時には歴史上観たこともないような決定力を持っている。」
というような人のほうが、人々の記憶に残るものです。
そんな歴史上観たこともない決定力を持っている人に対して、
「お前は守備をしないから、成績は4だね。」
などといっても、そのような評価は通用しないでしょう。
なので、尖っていけば媚を売る必要もないといえるかもしれません。
まとめ
「いい恩師に巡り会えた。」
という人生は、学生時代や会社員時代にはありませんでした。
むしろ、「恩師に出会うなんて媚を売っているんだろ。」
というようなことを考えて生きてきましたが、それでもなんとかなっています。
たしかに、媚を売って生きるほうが楽に生きられることもあるでしょう。
それでも、媚を売らずに生きていくのは楽しいですよ。
【おわりに】
色々な対談をYouTubeなどのネットで観ることに、少しはまっています。
そのなかでも、雨上がり決死隊の宮迫さんは対談するのがうまいなぁと。
【一日一新】
はなまるうどん カレーかしわ天