「じぶんの人生を数十年単位で振り返ったときに、ビフォーアフターがある」というのは、ちょっとした幸せなことかもしれないというお話を。。。

命が尽きたときに、そのときのじぶんしかないというのが
いつか命が尽きたときに、
「写真がおじいちゃん。。。」というものだけで、じぶんの人生が残り続けるのは嫌だと感じていたことがありました。
「幼い頃も、若い頃も、年老いた頃もあった人生なのに、飾られる写真は年老いたものだけなの。。。」といった感覚があったのです。
たしかに、年齢を重ねた後に命が尽きる際には、
「周りにいる歳下のひとからすれば、年老いたじぶんしかしらない。。。」ともいえるので、おじいちゃんとなった写真が飾られるのは理にかなっているのかもしれません。
また、年齢を重ねていくうちに「若かった頃のぼく」といったものを、
じぶん自身が忘れていくかもしれないので「遺影は直近のもの。」というのはスッキリするのかもしれません。
とはいっても「あの頃のじぶんがなかったかのような。。。」とも感じる、おじいちゃんのじぶん遺影だけといったことに違和感を持っていたのです。
未来にじぶんを残していく
「なんとか若い頃のじぶんを残しておく術はないのかなぁ。。。」といったなかで思い浮かぶのが、若い頃の写真なのかもしれません。
自撮り写真を撮りに撮りまくってみれば、その瞬間瞬間のじぶんは残り続けるといえますから。
ただ「写真だと、じぶんの雰囲気は出ないよなぁ。。。」と考えていたのです。
「やっぱり、若い頃の写真じゃなくて、雰囲気的におじいちゃん遺影はこっちの写真でしょ。」とも思われてしまうんだろうなぁと。
そんな「生きている様子をうまく保存していくには。。。」と考えているなかで有効なのが動画だとYouTubeを始めてしばらくしてから気がついたのでした。
動画だと「話している・動いている・笑っている。」といった情報量多めで雰囲気は伝わりやすいかもと。
だからか、YouTubeでの自撮り動画を撮影していくにあたり、
「命が尽きたときにも、この動画が残っていれば人生のビフォーアフターが伝わるかもしれない。」などと、続けるモチベーションにもなっているといえます。
動画によっては「このときは太っている。このときは痩せている。」といったことを感じられるのも、記録としてリアルだといえるのです。
ビフォーアフターを残すために
「正直、YouTubeでは顔を盛っている。」ともいえますが、短い期間だったとしても感じられるじぶんのビフォーアフター。
これがいつまで残り続けるのかはわかりませんが、数十年後まで残っていた際には「壮大なビフォーアフター」になっているものでしょう。
「おじいちゃんは若い頃(もうオジサンだけど)、こんな感じだったんだね。」と振り返ってもらえるかもしれません。
だからか「じぶんのビフォーアフターを後世に残したい。」といったことは、YouTubeで叶えつつありますし、発信にはその効果もあると感じています。
テキスト系の発信でも「文体や思考。」というビフォーアフターを感じてもらえたりもするはずでしょう。
なので「発信をしてビフォーアフターを残していく。」というのは、じぶんの人生の振り返ったときに大きな財産のひとつになっているかもしれません。
80歳になったときに、
「動いているじぶんや書いているじぶんを振り返る。」
「振り返られる素材がある。」というのは、ちょっとした幸せなことだったりもするんじゃないかなぁと。
しかも、80歳から振り返ると「いまのじぶんは十分若い。」といえる状態。
そんな未来への遺影を残す意味でも、
動画系やテキスト系の発信をする際のモチベーションになりますし、モチベーションをそこに持っていくと持続していくかもしれません。
まとめ
人生を振り返るときに「ビフォー」が目に見えるかたちで残っていれば、自慢できちゃうかもです。
【おわりに】
Nintendo Switch 2は、
「経済がインフレにパラダイムシフトしているし、娘に求められているから。」という理由で家族分の確保を狙っているんだと思っていました。
「まだ、本当の意味ではSwitch 2で欲しいソフトはないんだよね。」と感じていたのです。
ただ、ヒカキンさんのYouTubeを観ていたらマリオカートがめちゃくちゃやりたくなりました。。。
【一日一新】
東京都写真美術館 被爆80年企画展ヒロシマ1945